昭和46年05月26日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神と言えば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受け様と思えば、儘よと言う心を出さねばおかげは受けられぬ。儘よとは死んでも儘よの事ぞ。」
ままよとは死んでもままよの事です、いかに天地金乃神様が、天地を一目に見て御座る、其処の天地の中に生かされておる、私達であると言う事を分からせて頂いても、それを本当に実感として分からせられると言う事は、段々、信心の稽古をさせて頂くと言う事。その信心の稽古をさせて頂いて、此処は一つ、もうままよと、または死んでも儘よと云う程しの事に、例えば直面すると言う。
御理解その前の節、21節最後の所に日が伴れば世は闇なり、信心なければ世界は闇なりと、こう仰っておられる。私共はそう言う世の中が闇、闇でもあろうかと思われる様な時に、信心の光によって、何も言わんと感じんで済む程しのおかげ。そう言う時に立って、初めて信心の真価が問われる。信心の本当の値打ちは此処にあると言う訳であります。だから其処には愈々私共が愈々の時に、儘よとは死んでも儘よの事ぞと言われる程しの信心を身に付けて行かなければならん。信心の栄光の歌の歌詞ですけれども。
天地は神の懐。人は皆神の愛し子。限りなき神徳の中に。いわゆる、この(神徳)めぐみ中にですね。神徳と書いてめぐみ、限りなく恵む様な感じ。生かされる我等嬉しきと。ね。そう言う、例えば事実の中にですね、私共が生活させて頂いておる、此の事を私共が本当に実感として、限りなき物の中に生かされておる、我等であると言う事。天地は神の懐である。人は皆その神の愛し子である。
確かにそうなのですけれども、是れでもし信じられた所からです、ね、私は何時の場合でも、どんな場合であっても、儘よと言う心と云う様な心にもなれるんだと、こう思うです。ね、ですからただ信心があっても無くても、大した変わりばえがしない、と云う様な事では、勿論なりませんけれども、一番信心を頂いておると言う事が有り難いと言うのはと分かるのは、やはり愈々の時だとこう思う。
人間が、ね、例えばいよいよの時にいわゆる慌てるとか、ね。もうそこには信心を頂いておる者の在り方と云う様なものは、いわゆる失ってしまうと云う様な事ではない。いわゆる、愈々にになると思われる時に、初めて信心の光が問われ、いわば闇を闇と、闇でなくて、いわば不自由のないおかげが頂かれると。ですからもう結局私は信心とは、本当に神様、まあその、歌の歌詞を申しました様に。本当に天天地は神の懐である、人は皆神様の愛し子である。
限りない御神徳、ここの、神は平等におかげを授けると、受け物が悪ければと仰っておられる、その神様がそう言うおかげを下さる、そのおかげの中に、私共があるんだと言う事を信じれれると言う事。是れはもう、私共は何時もそうなんですけれども。まあ私いわば寄せ合いたいとか。まあ私がおらなければ困ると云う様な時に、何時いつの、何時頃お伺いしたら良いでしょうかと、良う言われます。
それでまあ何時なら、私は何時もおります、何時もなら私はおります、あの此処へ座っておりますと、云う様な事を言う事もありますけれどもね。例えば、その本当の心の中には、いやあの何時でもいいですよ、貴方は都合の良い時にお出でられればいいです。貴方の都合の良い時が一番、最高に都合の良い時だと、此処でもと私はそれを何時も信じております。ですからあのそう言う風にまあ言うんですけれどもね。
私共そう言う生活が出けれれるおかげでなからにゃいかんと、ね。自由と言うか人間の心を使わんで済む生活。しかも、その生活が一番素晴らしいまあ言うなら、素晴らしいタイミングの良い事になるんだと信じれれる生。いつの何時頃行って下さいと言う、とそれに縛らない。ね、そして其処でさあならお客さんであるならば、あのあれをしたり是れをしたりせなきゃならん。
ああしたりしてお神様がそれはまあ、人情から言やあお客様を受ける時に、お風呂の一つもしとかんならん。何かおご馳走の一つも作っておこうと。是れはまあ普通から言えばまあ勿論、そうどころじゃないですけれども、まあそうする事が悪い事ではないですけれども。それよりかもいっちょ素晴らしい事は、いわゆる私共がね、何時も私共は神様の懐の中にあるのだと。神様の御神徳の中に私共は生かされて、と言う事でその、嬉しさと言う物を何時も心に感じておれれる。
ですから私の信心に狂いがなからなければ、ああ一番最高の時に最高その、素晴らしいタイミングの中に、まあ一つの面会なら面会でも出けるんだと云う様な、これは頂き方。ただ、其処まで信じれれるという生活。これはねもう何でもない事の様ですけども、それを信心の、いわば今日私が申します様に。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞと言う所のね。それが基本になる物なんです。
確かに神様はもう言うならば、もう降る様におかげは下さってあるんだな、こちらの頂き方さえ間違いなければ一分一輪間違いのないお働きの中に、それを頂きこなして行けれるんだと言う体験を積んで行く為には、其処まで神様が信じれれる信心を身に付けなければならん。お天気の日ばかりでない昼ばかりじゃない。雨風の時もあるね、真っ暗闇の時もある。その真っ暗闇の時に真っ暗い思いをせんで済む信心。
雨だ風だと言う時に濡れんで済む、言うなら折れんで済む程しの信心。そう言う信心を身に付ける言うう事は、どう云う様な事であろうかと。ね、そこから神様の間違いなさ。成る程天地は神の懐だな、人はみな神の愛し子だなあ限りない神徳の中に私共は生かされて生きておるんだなあ、と言う嬉しさを感じながら、生活をして行く生活と言うのが、私は信心生活と思う。ね。まああのもう何か月前だったでしょうか。
久留米の佐田さんの弟さんが、アメリカに三年間留学をしておられました。それが帰ってみえる時に、下りられたすぐ後に、私が大変お世話になったお医者さんで、外人のお医者さんが、こちらに見える事になった。それであちらこちら案内役を、その承っておられると。それでこの合楽の教会を特別に見せて頂きたい。お庭も見せて頂きたい、施設も見せて頂きたい。
何かそう言う物を、その外人の方から見たいと言われとるから、私が知った親達が信心しておる宗教の、金光教と言う信心、教会をまあお見せしましょうと言う約束をしとりますが。何日の何時ごろお伺いしたら、先生が一番都合が良いでしょうかと言う電話が掛かって来た。だからそれは本当に不親切な後から考えた時、様な感じがするんですけれどもね。そのその外人さんの都合の良か時貴方がたの、一番都合の良か時なら何時でも良いですよと、私が申しました。
私は普通本当にですね、それがもう本当に一番都合の良いと言う時だとそれが。と信じてそう言えれると言う事の、何と言う素晴らしい安心の生活とは、こう言う生活だとそん時私は思うたです。ね、またまた都合悪いとか家の都合の悪い時には、また出直して来て下さいと言った様な、不親切な気持ちじゃないですよ。もう確かにそれが一番おかげの頂けれる、例えば隣組とかずうっと、ある程しの行事がある中にですね。
何時の何時頃が丁度どいいですよなんて、その言ったってね、それはもうなら向こうがちょっとバスに遅れなさったり、またはちょっと付くのが忙しい所の、其処のぶつからなきゃならん、と言った様な事ではいけませんですね。私はその日は大変忙しくて、もう内外共に忙しい日でした。だからお広前でお取次ぎを終わって、裏の方へお客さんがあっておりましたから、あの茶の間でその用を済まさせて、その用件が済むと言う時に、その佐田さんが見えられたと言うて、あの、裏に言うて来ました。
それでそのお客さんはすぐ発たれましたが。もう本当にそれは何と言う神様のお働きであろうかと思う様な神ながらなお働きの中にですね、おい出られたのをすぐですね、2・3時間おられたでしょうか。それでいてもう一日例えばその掛かっても、是れだけの堪能する事は出来まいと思う位にですね、あの堪能して頂いて喜びをもらって、帰って頂いた。帰って頂いたら。もう次には電話が掛かって来て。
私がおらなければならない用件が待ち受けとった。やはりその時にお話したと思うんですけども、私はねそう言う生活をして頂きたいと思うです。皆さんでもそう言うおかげを頂いてもらいたいと思うです。神様は確かに下さってあるんだなと言う事なんです。ね。例えばその時のそれはもう無理にですね、食べさせる物でもこげなつが日本の掘り出しもんじゃけん、あれも取っとって食べさせよう、これも作って食べさせて、腹一杯詰め込み食べさせると言った様な事ではなくて適当にね。
そうですね、あの玉露と確か羊羹で、応接間でまだあれは羊羹以上の羊羹でした。確かそう云うお菓子を頂いておった。それから客殿では最後に確か蕎麦を差し上げました。茶室でも丁度おかげを頂いて、大変喜んで頂いた。それは私色々さして頂いた。それが丁度相撲があってる頃で、私は庭をいっぺん、そのずっと回って、その泉水の前に出て来た時に、丁度そのまあ「たけなわ」と云う所であった。
それでまああそこへ炬燵の部屋がありますから、是れで日本の炬燵と言う、まあ暖房の方だほお話には聞いておったけど、あのああ言う電気炬燵じゃない、堀り炬燵なんかって初めてなんですからね。そん中に入ってから、はあ是れが炬燵っていうモンですかと言った話し。ところがまあ、丁度あの、相撲が入りまって。そしたら、丁度その相撲のその、取り組みがですね、あの何人かおりましょうが。
あの外国人相撲が何とか言うですね。貴乃花と言いますか、いいえ外人のあのハワイから来とりましょうが。高見山ですかハイハイ、その高見山が土俵に上がった所でした。ですから、その日本人ばっかの相撲じゃ何ばってん、やっぱそのちょっと慣れればですね、やっぱ外人は外人で見て、やっぱ一生懸命その相撲って言う物すね、しかも外人が取り組んだのを見てですね、それからあの何ですか。
泉水の前のあそこの裏の所におりましたら丁度、若先生にお客さんが見えておりましてね、丁度其処にあの〔おおかくの〕、あれは何とか言いますかね、あれががありましょうが、一番最高のね、延岡ですか。あれをお客さんに進めておって、もうそこがすぐ減っておると言う事でしたから、其処にその様にウィスキーを置いてある様にして置いてあったから、まあお掛けなさいと言って、泉水の鯉なんかを眺めながらね。
そこであのジョニーウオーカーでも一杯差し上げてからね、それから茶室に変わって、茶室ではも愈々、茶室の雰囲気とか、そのお茶も味わってもらい、堪能してもらって、ね。そして客殿さに行きましたです。したらそのそう見えておられると言うなら、あのソバやらは珍しかろうから、ソバどんしてと私が言うて、しておる時分でしたかね、確か綾部さんが見えられましてね、あの綾部さんが給仕に出て下さいました。
もう日本にもこういう大きな女の方がおられて、まあ行き届いたサービスが出来て、後から大きなおばさまにどうぞよろしくって、帰られて喜ばれたんですけれどもね。もう、それは何から彼にまで、もう置いた物を取るとはこう言う事であろうかと云う様にですね、とても、あの人が何日の何時ごろ来るけん、こげな風に計画して、しと言うて何って言ったって出来る事じゃない程しの、いわばあの、お計らいの中に。
そしてあそこでですね一番最後に帰られる時にお蕎麦を頂かれる時に、丁度あの佐田さんがお婆ちゃまの方が見えましてね。そのだから自分所の家には連れて行ってないから、自分の親にまで紹介が出来られました。しかもお婆ちゃんどっか〔他所着だったけん、他所着きの着物きてからピシャッとしてから似合うとりました〕。それで私は話し合って見えたかと思った所が、どっか浮羽郡の方へ行かれて帰りに寄られたんです。
そしたらその息子達が、外人のお客さんを連れて、あの来ておると言う所に、あの見合わせられましたんですけど。もう神様はもう絶対もう一分一理の隙のないほどに、間違いがない程におかげは此の様にして下さっておるんだと言う事。それをその頂き止めると言うのは私達。だから其処ん所を〔受け行くと信心っちゃあ、もうほんに良かモンじゃあると言う事になりますけどもね。
ならそこの所を、現したり頂いたり出けると言う事。信心が今日わたし育つ喜び、現す楽しみと云う様な事を頂いた。信心が育って行くと言う事は、自分の信心が詳しくなると言うのじゃなくて、そう言う神様の間違いなさを身に付けて行くと言う事なの。だからどの様な場合であっても、慌てんでも済む、驚かんで済む。どの様な場合であっても、貴方が一番都合の良い時が、私も一番都合の良い時ですよと云う様な、まあ不親切なようですけれども、それが信じて言えれると言う事なんです。
そう言う心、現す喜びと言うのはね、私共は此処ん所では、自分の頂いておる信心をこう、奉仕をしたりお供えをしたりして現すと言う事もありましょうけれども。そう言う神様の働きを頂いて行くと言う事なんだ。この神様はこう言うおかげを受けられるんだという、おかげを現して行く事なんの。言うね、それを皆さんは、お取次ぎを頂いて、お願いをして、断片的こう頂いておられる訳でしょ。
それが断片的ですから、さあ今度は受けれるか、此の前は言うなら不思議なおかげを頂いたが、今度は受けられるか受けられんか分からんと言う不安がある訳です。ね。だから、そう言うおかげを頂かせて頂く為にはです、ね、もう愈々力が受けられる、愈々光が受けられると言った様な、いわばチャンスと言うのは何時もかつも有る物じゃないのです。ね。神の徳を十分に受け様と思えば、儘よと言う心を出さねばおかげは受けられん。儘よとは、死んでも儘よの事ぞ。
さあどうして良いか分からんと言う様な時にです、神様にもお供えしお願いをさせて頂いて、それから先はいわばもうどうでもいいと言う姿勢がいわゆる、死んでも儘よと言う事はね、私は、もう神様が下さる物を本気で頂こうと言う気になる事だと思う。自分の思う様になる事を願っておるのじゃないのです。ね。愈々の時にそう言う私は神様の働きを受ける為には、それこそまあ何と申しますでしょうか。ね、
いわゆる真剣勝負のような感じでです、そこを受けさせて頂く様な稽古が絶えず、その様な場合に成されとかなければならないと言う事です。ね。そこに神の徳を十分に受ける事が出来るのであり神様が、ね。神は平等におかげを授ける。そこの所を私はもうちょうどこう雨がこう降る様に、非常にこう降る様に神様はおかげを下さってあるんだと。それを受け止めるのは、それを現すのは私達です。
だからその現せれるところまで、私共の信心が育たなければならない。そうして初めてです、私は此の詩の文句にある様な、喜びの信心生活が出けるのじゃないかと思うです。天地は神の懐人は皆神の愛し子、限りなき恵みの中に生かさるるは皆嬉しきと言う、いわば嬉しい日常生活、信心生活。慌てずね騒がず受けれる、私はいわば本当の信心生活が出来ると思うのです。
そこでですね私共がなら、どう云う事に心掛けさせて頂いて日頃信心させて頂いたなら良いかと。例えば昨日も私が申しましたね、おかげは和賀心にありと仰せられるが、中々その和賀心と云うものが、何時もかつもよう頂けん。ね。けれどもその、信心とは、その和賀心を頂く為に稽古しておるんだと。信心とは有り難くならせて頂く稽古だと、まあ結論するなら結論しても良いと私は思う。ね。で、
その和賀心を求めて私共が信心させて頂いておるんだと。けれども中々その和賀心と云う物は、簡単には頂けないのですけれどもどうぞ、ね、今月今日で一心に頼めいと仰せられる、今月今日で一心に私共がその事を頼ませて頂いておると云う心の状態に、何時もあれと言うのです。昨日の御理解がそうです今心がいらいらしておる、心が真っ暗にあるそれでもいい。けれども是れではおかげは受けられぬと思うてです。ね。
神様に今月今日、只今を祈り願って行くと云う姿勢で何時もなんです。昨日学院の、から公子さんから初めて手紙が参りました。その手紙の中に、直子はまだ一回も手紙出しません。けどその中に、直子も一生懸命、信心修行をさせて頂いておると云う事を、が、まあ書いて御座いました。先月も座談会が御座いました。一人ひとりその、発表しなきゃならない時に、直子ちゃんがこう云う事を発表されましたと書いておる。
私共学校を卒業してすぐ学院に参りましたのですから、座る稽古も出けていない。だからもう一つにその足が痛いと。けれども信心とは耐える事だと。耐えるね「しのぶ」辛抱すると云う。信心とは耐える事だと聞いておりますから、此処を耐え抜かせて頂いて一年間の修行を、まあ終わりたいと思いますと云う様な事を、言うたと云う、言うがままの事を書いてからありました。
本当、それこそ教えたるごたるははは。訳は分からんなりに、その様な事を、まあ言うたと云う事を聞きましたがです、あの、書いて御座いましたがです。ね。私共はね、本当に信心とはやはり、耐える稽古をすると云う事。ね。もう様々な例えば朝参りなら朝参りでも、もう今日はゆっくり休みたい。もう今日は御無礼しようかと云う時もあるけれどもです。ね、信心辛抱をそう云う時に、辛抱し抜かせて頂きながら信心をさせて頂く時です。是れは昨日信心研修会の時に文男先生が申しておりました。
是れは私なりにです一端の信心をしておかなければ、何時どんな場合でもそれを神様の御都合として受けられませんと云う意味の事を言うております。ね。自分なりに一端の信心をしておらなければです、それを神様のどう云う場合であっても、神様のご都合として受けられない。そう云う私はね、稽古が普段に、いわばお天気の日に言うならば、昼の間にです、稽古しとかにゃいかんと思う。ね。
そう云う稽古が積もりに積もって、例えば降る日でも、いわば吹く日でも、平常の様にして過ごして行けれる。真っ暗になったからと言うて、信心の光は、そこに現して行く事が出来る様な、おかげが受けられる。そして神様がいわば平等におかげを下さる。親先生の上にだけそう云う働きを下さるのではなくて、皆の上にも同じおかげが受けられると云う事をです、平等ね。それを受け止めると言う事ね。私はそう云うおかげを受け止めて行けれる日々。そう云う生活が段々出けて来る事を信心が育つ事だと。
いわゆる、育つ喜び。成る程神様のお懐にある証拠がこう云う風に現れて来るなと、実感して行けれる生活。またそう云う神様の一分一厘間違いのない働きを現して行くと云う事の楽しみと云う物がです。身に付いて参りましたら、愈々それは、まあ歯を食いしばってから辛抱すると言った様な事ではなくて、その事もまた、楽しゅうなって来ると云う訳であります。是れは私自身の今頂いておる信心ですから。まあ言うならばですね、まあ皆さんの信心にこうするなら、ね、
まあいかにもそのお仕着せの様な事を申しますけれども。まあちょっとした手本だと思うんです。ね成る程神様は平等におかげを下さってあるんだ。親先生の上にだけ雨が降っとると云うのではない、お湿りがあってるとじゃない。誰の上にでも頂いておるのだけれども、それをまあだ現すだけにお互いの信心が育っていないんだと自覚させてもろうて。ね、育ついわば喜びを、今こそ身に付けて行かなければならん時じゃないですかね。
どうぞ。